ごくたまに書く、「蒼空之館」向けのブログ。
コンサネタもあり。
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今日は、1月から勤務する学校に面接と顔合わせに行って来ました。
どうやら非常勤講師じゃなくて、有償ボランティア(1時間1000円)という扱いになりそうな悪寒。 まあ家でニートしてるよりはマシでしょうか。 今日は校長先生と面接というか、いろいろお話を伺ってきたのですが、どうやら校長先生、元教育長だとかで、面接に関する話にもなりました。 その中で、印象に残った名言。 「面接はアピール合戦」 ここまで言い切っていたかどうか記憶が定かではないですが、とにかくアピールすることが大事だということをおっしゃっていました。 僕が、 「どうしても一歩引いてしまうんですよね~」 と言ったら、 「それが良さでもあるんでしょうけど、面接ではビシッとアピールしないと」 みたいな感じでおっしゃっていました。 今までもいろんな方から面接のアドバイスを受けて、それを自分なりにまとめて考えてみました。 結論。 面接とは、「ハッタリ力」を試す試験である。 (あ、ちなみに「ハッタリ力」は「はったりか」ではなく、「はったりりょく」です) たとえば、大学入試でも、はっきり言って将来使うかどうか定かではない知識の問題がわんさか出るじゃないですか。 たとえば、二乗するとマイナスになる数字。学問的な意味はあるのだろうし、実際にそういう数字を仮定することで、あるいは複素数平面の考え方を応用することで実際生活で役に立つ場面もあるんでしょうけど、正直なところ大多数の人にとっては、「i」なんて数字は豆知識以外の何者でもない。 それは漢文や古文もそうで、文学部に入ったって、ロシア文学やってたら漢文だの古文だのに出くわす機会なんてほとんどないです。ロシア語を漢文に訳したってなんの意味もないですしね。 もちろん、そうした豆知識を使って『ハカセの愛した数式』という名作を残した作家さんもいますから、全くの無駄だとは言いませんけれども。 面接における「ハッタリ力」もまた然り。 もちろん企業でプレゼンテーションをする時とか、教員だったら生徒の前で話す時とか、「ハッタリ力」が必要になることもあるでしょうけど、じゃあ、ハッタリ力がある人がすなわち有能な社員か、優秀な教員かといわれればそうではないわけです。 教員についてもう少し語ると、確かに、教員なんて正直ハッタリをかましてナンボってところがあると思います。授業にしろ、生徒指導にしろ、保護者への対応にしろ。 ただ、これは僕の個人的な意見ですが、教育って、教科教育や知識・礼節の伝授だけでなく、一緒に遊んだり話したりすることも含めて、生活全般を通して子どもの人格形成に影響を与えていくこと(逆にこちらも影響を受けることもあるでしょうけど)が大切なんじゃないかなぁ。そのためには、教員自身の人間性、素直さとか正直さとか面白さとか、そういうものの方が大切なんじゃないかなと思っています。「ハッタリ」はあくまで教育の技術であって、本質ではないと思うんです。 って、いかにも自分の価値観、みたいに書きましたが、北大伝統の「全人教育」の僕なりの解釈なんですけれどもね。 が、しかし、それはそれ。 試験というのは何か理由を見つけてふるいにかけるのが目的である。 そして、面接試験とは、「ハッタリ力」を尺度にしてふるいにかけることが目的なんだと思った次第です。 ただし、そこで重要な問題がひとつ。 人は嘘をつけない。 これはドラマ『相棒』で何度か出てきたことなんですが、人間、とっさに嘘をつこうとする時、身近にあるものを参考にするそうです。全くのでたらめはなかなか言えない。たとえば、「亀山」という名前から、亀といえば鶴、山といえば川、と連想して「鶴川」という別の名前を作る、など。 小説を書いている身から言わせてもらっても、まったくその通りです。社会問題になっているようなことをテーマにしたり、身近に起こった出来事をアレンジしたりして書いています。まったく無の状態から何かを作り出すのは簡単じゃありません。 従って、「ハッタリ力」も、嘘八百を並べればいいかというとそうではない。 突っ込まれて聞かれたら必ずどこかでボロが出る。あるいは、話に真実味が出なくて、インパクトに欠けてしまう。 そこでどうすればいいかというと、やはり、自分の気持ちとか出来事とか、「真実」を語ることだと思うんです。 「真実」に、尾ひれをつけてもっともらしく、格好をつけてインパクトを与える。 これが面接の最も重要な「技術」なんだと思いました。 それにしても、会社にしろ公務員にしろ、採用担当の人の「ハッタリ力」は相当なものだと思います。 面接試験について、「人物重視」「人間性重視」とおっしゃっているのこそまさにハッタリではないかと。 これだけ面接で落ちまくっている僕の人間性って一体……、と、どれほど深く悩んだことか。 でも、実は面接はハッタリ力の試験であって、その「人間性重視」って言葉そのものがハッタリだったと考えると、いろいろ納得が行くというか、安心するというか。 今回の記事では、面接についてかなり過激に割り切ってしまいましたけど、これくらい割り切ってしまった方が、精神衛生上もよろしいんですよね。 そういうわけで、「それはあまりに割り切りすぎだ」ってご批判はご容赦願います(笑)。 PR
東京の四季の中では、秋が一番好きかもしれません。
ジムの帰りに少し外で風に当たってたんですが(運動して体がほてっていたので)、乾いた冷たい風、かすかな風にゆらゆら揺れる「入居者募集中」ののぼり、枯れ葉で覆われた土。茶色い感じのする、冷たくて夜露に湿った土のにおいもしました。 一番繊細で、五感を研ぎ澄まさないと見逃してしまいそうな季節、「秋」。 携帯ばっかり見ていないで、たまには顔を上げて「秋」を感じてみるのもいいなぁと思いました。
たくさんの人に、感謝したい気持ちの夕べです。
通っているジムでスタッフの方にすごく癒されてます。この間も、「最近お疲れの様子みたいですが大丈夫ですか?」と声をかけてもらったり、今日も、たまたま隣のコースで子どもを教えていたコーチが知ってる人で、ちょっと絡んでくれたり。 小さい頃一緒に遊んだ友だちもいる。偶然駅で会ったりもします。それほど密に連絡を取っているわけじゃないけれど、昔の記憶があるから、いつも心のどこかにその友だちがいるわけで。 実は、最近家庭にもわりと居心地の良さを感じていたりします。自分自身が親の「早く就職しなさい」系の言葉を受け流せるようになったこともあるけど、母も父も、なんだか丸くなった気がしますね。あんまりお尻ひっぱたいても状況は悪くなるだけと悟ったのかもしれませんw。小さい頃にこの雰囲気だったら、と思わずにはおられませんが、まあそれはそれ、一緒に過ごす家族がいるっていいなぁと思います。 東京も悪くないなと思っています。 が、北海道にも、僕の大事な時期を一緒に過ごした仲間がたくさんいるんですよね。 大学2~3年辺りから数年間は精神的に暗黒の時代だったように思います。そんな中で、状況が変わったなと、良くなったなと思えたのは、札幌で出会った彼女のおかげだったり、コンサドーレ仲間のおかげであったり。 7月にコンサ仲間の方の家に泊めてもらった時は、すごく楽しかったです。一緒にコンサの話したり。あー、家族団らんってこういうのなんだー、なんて思ったりしました。 札幌での生活は、今の東京での人間関係形成にも大いに影響していて、北海道出身の人と特によく話すようになったり、東京在住のコンササポさんにも大変良くしてもらったり。中には、僕の母校(某都立M高校)出身の後輩でコンササポ、なんて方もいたり、多摩出身でいつのまにか札幌に移り住んでいた方がいたり。 やっぱり、「北海道」って僕の中でかなりウエイトの大きい場所で、これからも過ごしたいと思う場所で。 北海道に行くまでは、自分の居場所なんてない、ふるさとなんてないって思ってきたけど……、北海道に行って、また多摩に帰ってきたら、いつの間にかふるさとが二つもできてました(笑)。 ここのブログやホームページによく来て下さる方にも、大変感謝しています。奈良の方とか、埼玉の方とか……。 更新しよう、小説を書こうというモチベーションをもらっています。 僕に関わってくれたたくさんの皆さんへ…… ありがとう! これからもよろしく!
NHKで「プロフェッショナル 仕事の流儀」っていう番組があります。あれ、大嫌いなんです。
他人の自慢話なんか聞いて何が楽しいんだ、ぶつぶつ。 たまにこの人の話は面白い! って人の話もあるんですけどね。 で、嫌いな話の共通点を考えてみました。 だいたい出てくるのが「妥協を許さない」「あきらめない」みたいな話です。 まあ僕が今うつ病を患ってるからってのもあるんですけど、これほど不快な言葉はないですね。いいじゃん、ほどほどで手を打とうよ。その道はあきらめようよ。 でも、「面白いな」と思う人はこれを別の言い方をするんですよね。たとえばノーベル賞を受賞した田中耕一さんが(「プロフェッショナル-」でだったかどうかは忘れましたが)話していたのは、失敗したりうまくいかなかったりしたら、それを責めたり失敗として視野から外してしまったりするのではなく、なぜそうなったのかを興味を持って追求していく、と言うわけです。 妥協して、あきらめてるんですよ。当初の実験の目的からそれているわけですから。でも、徹底的に追求するという意味においては妥協していないしあきらめていない。しかし「妥協しない」「あきらめない」と言うと陳腐に聞こえてつまらないんですよね。そこが僕が好きか嫌いかの分水嶺なんだろうな。 さらにそこに考察を加えると、「妥協しない」「あきらめない」には「ない」という否定の言葉が入っている。 これが良くないんじゃないか。 これは僕が嫌いだと思った人も含めての話ですけど、成功した人は、自分の失敗や欠点ばかりを見つめて来たんだろうか。 いや、絶対そんなことない。一つの小さな成功に喜んで、自分で自分をほめて肯定してあげられる。そういうことがあるんじゃないかと思うんですよね。有森裕子が「自分で自分をほめてあげたい」と言いましたが、これが重要なんじゃないかなぁ。それがなければ、一つのことに打ち込んだりできないんじゃないかと思うんですよ。 一流としての自信、一流であるが故にかかってくるプレッシャーをはねのけるメンタル。そういうのも、自分をほめることで得られているんじゃないかな。 NHKはそういう一番大事なところを伝え漏らしていると思います。 何者をも否定せず、知的好奇心にのみ従って突っ走るという意味では、「プロフェッショナル-」のあとの「爆笑問題のニッポンの教養」の方がはるかに好みですね。太田さん、毎回突っ走りすぎてますけど。何者をも否定しないあまりに話が広がりすぎて収拾つかなくなりますよね。田中さんのツッコミがなければ番組が成立しないでしょう、きっと。 地味に見えて重要なんだなぁ、冷静なツッコミ役って、としみじみ思うひとときです。
今日のNHK「スポーツ大陸」を見て感動しました。思わず家族の前で泣きそうになりましたよ。
今日はクルム伊達公子選手の話でした。 まさに「悟りの境地」って感じです。 第一次現役時代は、勝たなきゃ、ランクを上げなきゃ、というプレッシャーでいつもピリピリしていて、いつしかテニスを楽しめなくなっていたそうです。 が、今の第二次現役時代は、テニスを楽しむという姿勢を貫いています。試合中もいつも笑顔です。勝っても笑顔、負けても笑顔。 楽しむといっても、あきらめない、勝負に挑むという姿勢がないというわけじゃない。楽しむっていうのは、単にちゃらんぽらんにやるということとは違って、まじめに、真摯にあることに向き合って、深めて、その先にあるものなのでしょうね。あるいは、楽しいから、まじめに向きあるのかな。どちらが先なんでしょうね。 僕も、創作をするときに、これはいい作品ができた、と思うときは、だいたい楽しめているときです。『ある雨の日に』なんかも、書いていて楽しかったです。『春』は高校生の時の作品ですが、授業をそっちのけで書いていましたからね。 クルム伊達公子選手、37歳。伊達選手のような心境に至るにはあと10年かかるかもしれませんが、それを目指して、一日一日を楽しみたいですね。
人ってなんてあっけないんだろう。
それに反比例して、人の命ってなんて重いんだろう。 そんなことを痛感したこの週末。 一緒にコンサドーレ札幌を応援していた仲間が、交通事故で亡くなりました。 突然のことでした。 つい先月、大宮で一緒に勝利を喜んだり、サッポロビール園でジンギスカンを食べたりしていたのに。 僕はまだ生きているので、食事もするし、今日はバイトにも行ったし、ジムに行って体も動かしたけれど、ちょっとでも間があると、亡くなった仲間のことを考えてしまいます。 今日がお通夜で、明日出棺。葬儀は北海道で行われるので、僕は行けません。申し訳ない。 『のんのんばあとおれ』(水木しげる)では、のんのんばあが「死んだ人の魂の一部は、現世で関係のあった人の心にちょっとずつ残るんだ」と話していましたが……、その一部、ちょっとの魂でも、僕には重たいです。 今まで身近になくなった人がいないわけじゃありません。 小・中の頃の友人が、高校時代に亡くなったこともあった。ただ、その時は彼とはすでにだいぶ疎遠になっていたので、ショックは受けたけれど今回ほどじゃなかった。 叔母(母の妹)がガンで亡くなった。でも、病気が病気だけに、覚悟はある程度できていた。 しかし、今回は、あまりにも突然すぎる旅立ちで。正直、まだ信じられていない部分もあり。 凹みまくりです。 今日はバイトの登録会に行ってきました。これで何社目かね。どこも似たり寄ったりですね、規則とか、バイトへの入り方とか。電話で予約して、前の日に確認して何とかかんとか……。
情けは人のためにかけるのではない。その人にかけた情けは巡り巡って自分のところに帰って来る。つまり、自分のために情けをかけるのだ。
という意味のことわざですが。 今の日本に不足してるのは、こういう精神だと思います。 他の人に優しくする。小さなことは大目に見る。みんながそれをやれば、みんながいい気持ちで過ごせるんじゃないかな。 今の日本は、みんながお互いに厳しくしあって、悪循環に陥ってるように見えます。 こんなの、あまっちょろい戯言。世の中は厳しいもの。 でも、拙者はあまっちょろい戯言の方が好きでござるよ。 秋葉原の通り魔の人、「世の中が嫌になった」なんて思う前に、誰か彼に救いの手を差し延べてあげられなかったのかなぁ。 亡くなられた方はもちろん、あまりに重い罪を犯してしまった彼も、かわいそうで……。 「世の中が嫌になった」というあなたの気持ちは、わからないこともない。僕も、そう思ったことがありました。 しかし、あなたの選んだ方法は、間違っています。 情けのある人間になろうと思いました。 最近は親のこともそれほど憎いと思わなくなりました。 でも、働き始めたらまた心がささくれ立ったりするのかなぁ? 常に優しい人間でいたいものです。 (注) もちろん全体としては真剣に書いたのですが、その中に二つほど小ネタが仕込んでありますw。 |
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プロフィール
HN:
大澤唱二/元多摩
年齢:
44
HP:
性別:
男性
誕生日:
1980/06/25
職業:
NEET
自己紹介:
創作歴 ・中学生の頃、国語の先生に書いた小説をほめられて気を良くし、執筆を始める。 ・高校では図書館に入り浸り、多くの仲間と出会う。 ・ひとつ上の代の防人因果氏に続き、書いた小説を小冊子にまとめて図書館に置くという活動を行う。 ・ものの弾みで「全国高校生創作コンクール」優秀賞を受賞してしまう。 ・大学でもちょろちょろ書くが鳴かず飛ばず。 ・2008年になって創作を再開、日本文学館の小さな賞の月間優秀賞をもらうがその後は連絡が来ず。まあ来なくていいけど。自費出版するお金なんてないから。 ・群像新人文学賞に応募中。発表は2009年5月。 赤黒歴 ・2001年の最終戦、セレッソ大阪戦@札幌ドームが初観戦。 ・その後年々観戦回数が増え、2006年に最大に。アウェイも結構出没する。 ・2007年は東京に移住したため若干減少。2008年はチームの成績が振るわなかったためさらに減少。 ・OSC「蹴遊旅人」に所属しています。 ドールズ歴 ・コンサドールズとは、コンサドーレ札幌専属のダンスドリルチームである。札幌のホームゲームで登場して華麗なダンスを披露。観客を魅了し、試合開始50分前のダンスでは、「アウェイドールズ」と呼ばれる、コンサドールズと一緒に踊る一団がアウェイ側B自由席(一番安い席)に登場、札幌ホームゲームの名物となっている。 ・コンサドーレがJ2最下位に低迷した2004年、アウェイドールズの存在に気がつき、一度参加してみたのが運の尽き。 ・その後はホームゲームごとにアウェイドールズに参加。そのうちに、ホームゲームに通う主な目的はドールズになったとかならなかったとか。 ・札幌を離れてここ2年はすっかり寂しくなりました……。 ・それでも札幌でホームゲームを観戦する時は必ずアウェイドールズに参加しています!
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